profile・生い立ち
髙子 景(たかこ・けい)
昭和62年5月22日生まれ
・さいたま市議会議員 4期(見沼区選出)
・さいたま市議会自由民主党議員団 議会対策委員長
・元議会運営委員会 委員長
・御蔵まつり 事務局長(2015~現在)
・片柳商工会 顧問
・南中野商店会 監査
・片柳伝統文化保存会 役員
・青少年育成片柳地区 幹事
・海老沼小避難場所運営委員会 リーダー(2019〜現在)
・ボーイスカウトさいたま第10団育成会 理事
・自民党見沼区支部 青年部長
・衆議院議員村井英樹 元秘書
・大宮東Rotaract Club 元会長
・Rotaract 第18回アジア第1ゾーン会議 議長
・大宮見沼ライオンズクラブ 第45期会長
・MPM 早稲田大学大学院
《生い立ち》
『母子家庭で育ちました』
私は、母子家庭で育ちました。父親の顔はおろか、名前すら知りません。しかし、決して恵まれた環境ではありませんでしたが、自分が不幸であると感じたことは、一度たりともありません。
なぜなら、そのようなことを感じさせないほどに愛情を注ぎ育ててくれた母や祖父母の存在。そして、私たち家族を温かく見守り、私をここまで育てていただいた地域の皆様のお陰であると感じています。
だからこそ、「地域の皆様に、見沼区の皆様に“ご恩返し”がしたい」―その思いが、私が政治家を志した原点にあります。
『高校から奨学金を借りるも就職に失敗』
小学生の頃から続けていた野球。中学では全国大会に出場し、その結果、野球推薦で合格した私立の高校に通うことになりました。(1年生から、4番センターで公式戦に出場しました!)
一般的に学費が高いとされる私立高校ですが、高校時代から奨学金を借り、また、埼玉県の支援制度を受けることで、どうにか学費を払うことができ、無事に卒業することができました。
大学時代。奨学金を借りると同時に、コンビニの夜勤でアルバイトをすることにより、学費・生活費を稼いでいました。
そして、大学3年生になり、就職活動が始まるという矢先にリーマンショックが起きました。企業は軒並み採用人数を減らし、自分自身の努力不足もあり、自身の行きたい会社・業界の内定をいただけることができず、就職浪人となることを決意しました。
『ハローワークから政治の道へ』
就職浪人という選択は、想像していたよりも過酷な日々でした。
就職浪人中、ハローワークから応募した会社の数は、100社に迫る数字でした。しかし、面接まで漕ぎつけた会社は、3・4社程度というのが、当時の民主党政権下の経済状況でした。
また、卒業してから2年が経過すると、奨学金の返済が始まります。高校時代から奨学金を借りていた私は、他の人よりも多い金額を借りていますので、月々の返済額も相応に多くなります。
そのような絶望的な状況の中、ハローワークで見つけたのが、当時は新人で、バッチも付けていない、ただの人である"村井ひでき"事務所の「政治家秘書募集」という求人でした。
『秘書から政治家へ』
ハローワークから、村井ひでき事務所の扉を叩き、試験期間を終え、正式採用となってからは、まさに怒涛の日々でした。
"衆議院議員 村井ひでき"を誕生させるために、朝は6時から駅での街頭演説をサポートし、夜は日付が変わってから事務所から帰宅するという日々が2か月も続きました。
そして、運命の2012年12月16日。「第46回 衆議院議員選挙」において"衆議院議員村井ひでき"が誕生しました。
これまでの日々は、私の人生においてかけがえのない経験となり、自信へと繋がりました。
また、この時の"衆議院議員 村井ひでき"を誕生させた、私の働きを評価していただき、見沼区で行われる、さいたま市議会議員の補欠選挙の自民党公認候補として立候補することが決まりました。
そして、2013年5月19日。21,680票の御信任をいただき、25歳で"さいたま市議会史上最年少議当選"をさせていただき、"さいたま市議会議員 たかこ景"が誕生することとなりました。